Fly me to the moon

舞台の感想・おそらくほぼ宝塚

宙組エリザベート メモまとめ(りくルドver)

乱文メモ書き 一応まとめて保存

 

まぁトート死は悦楽、死は官能・・を体現しててすごいね!!!!

佇むトートが行き場なく迷うシシィに見えるからそういうことなんだと思う

「あなたがここに」「奇遇です」って、エルマーは誰を見たんだろう エルマーが会いたかった人は誰なんだろう

「私だけに」でナイフを肉体に突き立てることは出来なかったけど、彼女の中の少女性は一回死んだのだろう

宮廷の虚飾の虚しさに気付いちゃったから、まぁトートやってきちゃったよね(最後のダンスつき)

 

まぁトートは男性性をルキーニに預けていて基本無性だなぁ

多分見る人が見たいものがまぁトートの中に見える

めっちゃハプスブルクだった めっちゃ退廃でこの世の終わりだった

フランツが頂いちゃったマデレーネって魚でつまりイクトゥス、対するシシィは卵とオレンジってつまりそういうこと

ルドルフと対峙するシシィが纏うのが青で、マリア様の色だなって

棺に脚を投げ出して髪を触るまぁトート、シシィの女の顔してた 母親なんぞやってられるか的な

ルドルフの死への道程って苦悶なんだけどその果てに甘美な死があってエクスタシーだった、美しかった

王を夢見るルドルフが実際夢見たのはシシィの愛 微笑むシシィを夢見ちゃうルドルフさん 「お母様が聞いてくれーるあなたの話なら」なお父ちゃんと同じだった

「心優しいエリザベート」なんてフランツの幻影の中にしかいなくて 慰めにシシィをむさぼるつもりならそりゃ「母ちゃんとこ行けや」ってなる
ザコンの病理がこれでもかと色濃く反映していた気がして  対するシシィも「死なせて」とトートにすがったとき、マックスパパに助けて欲しかったんだろう
まぁトートが愛した人しか多分迎えに行かないし、言い換えれば死を愛した人しかトートを見いださない だからゾフィーはまだまだまだまだ生きたかったんだろうなぁって思う
宮廷で生きるために自分の中の少女を殺し、それでもフランツではシシィの女の面は目覚めなかったんじゃないか、フランツが知ってる女って「宮廷で唯一人の男と呼ばれる」皇太后たるお母ちゃんだけだもの
だからトートの誘惑に引き込まれそうになるシシィがすこぶる官能的、一番抑圧してるところ
シシィを誘惑するまぁトートが官能的なのは、それがシシィが一番欲しているところだからだ・・わーー
 
「僕はママの鏡だから」って、逆に。
ルドルフにとってそこにいるシシィは、自分の鏡としてしか見えてない。鏡の向こうの自分に拒絶されたから、そりゃ死ぬわ
 
風景が全部ハプスブルクの終焉を描いていて、シシィもその登場人物の1人にすぎないそこに現る「偉大なる愛」この愛には個人的には拒絶感も感じる
 
ナイフを戴いてから傍観者だったルキーニが当事者に立位置が変わる、その変容が実にあざやかだった 軽やかに現世と世紀末繋いでくれてたのに、時が来たらすっと病的な世界に入ってったの、まじスゲェ。
 
「あなたはもう大人その手で解決できる」と「母の意見は君のためになるはずさ」が同じメロディなの意図的 フランツの言葉でシシィの少女が死んだように
 
悲劇を悲劇として演出しないところが好き 一番泣きそうになったのはフランツの「嵐も怖くない」それでも君がついてこれるなら、と言う背中めちゃ重くて孤独だった 笑うからこそ悲しい
まかぜフランツ一見いい人で優しいだけに、真綿でぐいぐいシシィの首をしめてる感がはんぱない しかもそれに全然気づいてくれない
 
 
象徴音形についてちらと読んだだけでも、「愛と死の輪舞」は祝福の音楽なのかも  リーヴァイさんはドイツの人だし、全くその要素を入れない方が困難と考える
「帰してやろうその命を」と言う歌詞の内容と、そのあとの最高まで上がってから、下がっていく音形が多分対応してる気がする
 
 
逆説的に一番「生」を感じるのは死にゆく瞬間だから、むしろずっと従順なりくルドは死んでいるも同然で自分の人生を生きてなかったのかもしれないな
目があいてるのに何もうつってないところがりくルドすんばらしく惚れ込んだところ
 
 
帝劇版にはあれが出てくるよね 帝国の終焉をあらわすモチーフ で同じようなものをヅカ版にも探した・・N・・と思ったけど考えすぎかも。
たぶん閣下は滅びようが滅びまいがどうでもいいのだと思う とすると観客は黄泉の国でうごめいているウィーンの民 エリザベートと一緒に生きた連中だと思う
とりあえずシシィはすっごく愛された存在でいまもなお愛されているんだなぁと思った
 
 
ウィーン版に近いのが帝劇(近年見ていないので詳しくは語れない)でヅカはヅカ版としてオリジナルだ 見える風景が違いすぎるから正解とか優劣を争うのは無意味
エロと暴力と死をできる限り避けて、それでもよくあんなに観念的な世界を描いたなぁって感心する
 
 
男役にしかできない表現が最も似合う。死は 美しい
死に魅せられるというタブーは、女の肉体を持つとわかっていながら魅せられる背徳感に似ていて、その背徳感が快感を後押ししているような気がする
生と死の垣根を超えることは、男と女の垣根を超える感覚に似ている タブーがあるから、タブーとされているから背徳感と快楽を感じる
 
 
死は逃げ場ではない って突き放す前のリアクションが歴代のトートとぜんぜん違う 上体をぐいーと折って抱きしめるそれは勝ち誇った顔ではない 
しかも抱擁されるシシィが甘えているのではなく、逆だ みりおんから母性を感じる始末・・あぁ複雑だ
 
 
ルドルフにとって勇気を試す猫殺しと、己のこめかみに向けて引き金を引くってのは、違いはあまりなくて。
鏡の向こうの存在と一つになりたい、そのために肉体を脱ぎ捨てたって感じで
 
 
ヴィンデッシュもルドルフも、境界線を超えて向こう側いっちゃった人ですなぁ ルキーニも
生と死という二項対立が解決するときそれは合一であり同時に破壊でもあるんだって たぶんその断裂、混じり合わない不協和音、その割れ目を美しく思うしずっと眺めていたい
だから黒で始まり白で終わる だけど黒と白に優劣はない
 
多分トート閣下は境界線に定義されない、矛盾そのものを抱えた存在で 枠の外にいる、もしくは黒にも白にもなれる
あ、だからルキーニはボーダー着用なのか・・・?
 
 
閣下にルドルフがしがみつくとき、当然ルドルフの表情は見えないから、代わりに閣下がリアクションする それは悦びの顔で、すなわちルドルフの愉悦 待ち望んだ死に触れた瞬間
死は穏やかには訪れず、甘美な苦痛を得て果てるエクスタシー
全身で苦痛を感じていたマゾっぷりがりくルド大好きだった
 
 
 
同時期に見てる影響も無視できないけど、ジュアンちゃんもルドルフちゃんも訪れるもの感じているもの、似てるよね・・
 
 
「蒼い血を流す傷口」は、シシィが受けた胸の傷と対応してるんじゃないか 物語の構造上、対なんじゃないか
最後のダンスと死の舞、どちらも鏡の間で行われる、ってとこから 対?
 
 
 
個人的趣味としては銃を向けるとき、(映像とかだと)怯えた顔に見える気がするんだけど、快と不快の極致の顔が見たいんだよなぁ まぁ、イっちゃった目?
境界線の向こう側に一刻も早く飛び込みたいから、はやる気持ちをおさえる不快の気持ちと、苦痛が心地良い快の気持ち 生と死の境界線を超えるのって、並じゃない
 

でもあの一連のシーンは作品のコアだなぁ 少なくとも3本柱の1本くらいの重さ(てきとうに言ってる) 昔よりはあのシーンをやる意味が感じられているように思う

 
わかったルドルフの後ろにいるトート閣下が若干ドヤ顔っぽく見えたなら、それは「勇気を誇示したルドルフのドヤ顔」なんだな もうねこを可哀想とは思わないぼく。