Fly me to the moon

舞台の感想・おそらくほぼ宝塚

愛(かな)しいハッピーエンド ローマの休日

総括的な内容になっております。長文注意です。

赤坂ACT観劇からの感想です。

*感想と言いながら、ほとんど考察…?みたいな気もするので、面倒であればラスト2つの項目だけ見れば、それが感想です。

 

ジョーはむやみやたらに嘘をつく。遅刻の理由なんか偽らずに言ってしまえばいいものを、だらだらと言葉を重ねる。作品の構造が一通り頭に入ってからは、支局長との無為に思えるこのやり取りが、全体に影響を与えていることに気づいた。それは、言っていることと思っていることが必ずしもイコールではないということ。言葉を弄んでいる。

実は、ジョーもアーニャもどちらも【嘘をついている存在】である。比べても仕方ないけど、よりどちらの嘘の方が重いかと考えると、その影響が及ぶ範囲 を考えて、アーニャの方だと思う。


祈りの壁

祈りの壁。作品の中心点、ジョーとアーニャの気持ちがある確信を経て、同じ方向へ向いたな、そういう実感があった。マリア像が模してある祈りの壁、そのマリア様に顔を向けて、ジョーへの感謝を口にするアーニャ。嘘いつわりが一切ないと感じられた。

 

何故ならそこにマリア様がいたから…。その前で口にする言葉は信仰告白と同じ重さだと思う。はっきりとやましいところがなく、正々堂々と自分の 気持ちを口にできるアーニャに比べ、ジョーは顔を背けそちらを見ることができない。自身の後ろめたさへの認識があるから、アーニャの言葉を受け入れが たく思う。
そこではっきりとジョーは自分の内面を見る。自分を発見し確証を得る。そして、意志を伴ってアーニャへ手を差し出す。これは、単なる手繋ぎ、肉体的接触だけではなくて、、
嘘を重ね認めていなかった自身への認識であるとか、逃げであるとか。内的混乱をかなぐり捨てて、アーニャの気持ちをまっすぐに受け取った、それがこの手をつなぐ行為に顕れていて。

ちなみにこの時アーニャはマリア様に何をお願いしたか。「あなたは自分を犠牲にしても誰かを思い遣ることのできる人」

 

真実の口

真実の口の話を忘れていた。祈りの壁の前に戻るが、ただ単なるアトラクションとして置かれているわけではないなと気づかされた。嘘をついている者はその手を噛みきられる。映画を見たときは、ただ単に女の子にありそうな怖がり、おそろしげな雰囲気から手を出すことをためらった、そうとしか思わなかった。
違った。アーニャが躊躇ったのは自分が嘘をついているとはっきり認識していたためだった。その内側の良心が躊躇わせたのだった。
そのアーニャの代わりにジョーが手を差し出して、単なるカップルの微笑ましい風景が展開されるわけだが……立ち去る前にジョーは不思議そうに自分の手を見る。
【嘘をついていることは明らかなのだから、その手が噛みきられてもおかしくなかったのに】
単なる迷信と斬り捨てることなかれ。たとえ「手を噛みきられるなんてそんなことあるわけない」と思っていても、自分が嘘をついているという認識がはっきりと、潜在意識化に植えつけられたのではないか。何が嘘で何が本当なのか、いま一度考えさせるスイッチとして、この真実の口は作用しているなと、そう思わされた。

Fly me to the moon

祈りの壁のあと、ジョーとアーニャが行くのがクラブ。そこであすちゃんが「Fly me to the moon」を歌っている。この歌の歌詞を調べてほしい。もうこれはアーニャの 気持ちそのもので、祈りの壁の手繋ぎのあと、この歌を聞くのが本当に大好き。 それから、センターで踊っているカップル。ベージュ調のお衣裳をまとって、楽しげに踊っていて、、これは叶わなかったけど、ジョーとアーニャのもう一つの可能性と言 ってもいいか。アーニャはあんな風に正々堂々と踊りたかったはずなのだ、ジョーと。叶わなかったけど。
もしくは、ジョーとアーニャは遅れてクラブに登場するけれど、その心象風景が踊るカップルであり、あすちゃんの歌かな。とにかく、二人を祝福するようなウキウキにあふれている!

いつでも中立の人、マリオ

それから、マリオの活躍。お互いに【嘘をついている】ジョーとアーニャの真ん中で、まるで嘘をつかない(つけない)愛おしい人物、それがマリオ。和む。 ジョーとアーニャのセリフは心と裏腹なところがあり、それをずーっと追っていると何が本当で何が嘘なのかわからなくなってしまいそう。 だけど、そこでマリオが「恋人たちのアモール」だとか、アーニャに「お幸せに」と言ってくれる言葉は本当に嘘がない。だから、物語があらぬ方向へ進んでいかないよう 、手助けしてくれている。

おとぎ話の王子さまとシンデレラ

本当に面白いなぁとうなったのが、アーニャを見送ってうなだれているジョーが。心なしかここだけ前髪をはらりとさせていて。王子……!!となった。 実際には彼は王子でもなんでもなく、姫を迎え入れるに必要な要素を何も持っていないのだけど、彼はその心根だけ、真摯な気持ちだけで完璧にプリンセスの憧れる『王子 』だった。 冒頭で片方靴を落としてしまうアーニャは、まんま彼女が「灰かぶり」であることを指しているようだし、実際の王女アーニャが灰かぶりで、実際は”ハイエナ”にしかすぎ ないジョーが、アーニャに一時の夢を見せる”王子”として描かれているのも、本当におもしろい。 彼らは虚構の設定をまとうことで、知らない世界を垣間見たんだな。

色彩の変化

話はだいぶ前に戻るけれども、作品全体の色合いに注目して見ていると、実に細かくコントロールされているのではないか、、?と思い至る。 ハイエナのようにどこか飢えているジョーが纏うのはグレーだし、佇むのは暗い夜だ。しかしそれが次第に明けて朝になり昼になる。 特にベージュを纏うようになってからのジョーのネクタイの赤。それから一緒にいるアーニャのピンク。それが彩どりを与えていて、ベージュのコントラストの中でひとき わ目を引くし、生命力を感じさせる。 何回か見て私が深く深く感動したのは1幕ラストのローマの住人の躍動感だ。気づかないくらいひそかに、冒頭ではグレーだった街が、いつのまにかセピアのグラデーショ ンに変わっていることに。その住人がほんとうにきらきらと踊っている。その真ん中にはもちろんジョーとアーニャがいるのだけど、やっぱり彼らがいきいきと見えるのは 、背後の名もなきローマの住人たちのおかげだと思う。

映画のローマの休日になくて、この舞台版にしかないもの

それは色彩。巧みな色使いによって、無意識のうちに場面の印象を切り替えていたり、メッセージを発している 。

 

見届け人としての、アーヴィング

ベスパで暴走して、警察署の騒動があって、とっさの機転で切り抜ける3人。そこでアーヴィングは”えせ神父”にもなる。これはもちろん冗談なのだけど、ラストの謁見の 場面においても、彼は同じく見届け人として役割を果たしていることに気づいた。 謁見の場面においてジョーとアーニャは当然”ほんとうのことを言うこと”を許されない。
だから、言葉だけ見ればそれは単なる王女と記者の挨拶にしか過ぎない。やがて消えていってしまう幻のようなもの。だけどそこにアーヴィングがいることで。そこに立ち会い人がいるおかげで、この最初で最後の謁見の記憶は、確実に真実として記録される。
彼が、確かにそこに愛があったということを、決して夢なんかじゃなかったということを証明してくれるのだ。

 

ジョーの行先

アーニャが去ったアパートはとても静かで火が消えたようで、とてもさみしい。2つ並んだカップがよりそれを増長させるのだけれど。アーニャを失ったあとのジョーは大丈夫か?と心配になるレベルなのだけれど。 その後ジョーはどうなるのか、それは劇中の歌詞で示されていると感じた。ラストに歌う歌はもちろん彼の心情を表しているとは思うが、言いたいのはむしろ冒頭で歌われ る歌の方だ。

飛び出そう このローマから 心燃やす何かを求め
飛び立とう 今日(虚)ではない明日へ 幼いころに夢見た 冒険探しに
このローマから

飛び出そう、このローマから。だから、きっとアメリカに行くと思うのですよね。 またローマに帰ってくるとは思うけれど。
ちなみに【今日(虚)ではない明日へ】と書いたけれど、歌い方から、きょうときょ、二重の意味がかかっていないかな、、と疑っているのだけれど。 彼が虚を捨てて、"本当"に目覚めたこととして。  

映画版と宝塚版と

クラブでジョーと踊ることが叶わなかったアーニャが、踊りたいと伝える。その言葉のまっすぐさ強さにいつもどきりとする ところがあったのだけど。そこでかかる曲が「Strangers in the Night」。これも歌詞を検索して確認していただきたい。。 必須です。 それから、あっけなく二人は別れる…この演出が、映画版の印象がある方には物足りなく思う人もいたのかもしれない…。そ こで私は疑った、 ほんとうに「何もしなかった」のか????と。
その答えが、「Strangers in the Night」であり、アーニャの青いバラのガウンであり、あのフィナーレのタンゴ・デュエットダンスなのではないかと。 結局受け取り方はその人それぞれなのだけど、あのフィナーレは実は本編とも関連が深いように思われる。というか主演二人 については話がまだ続いているのではないか、と思うほど集中力を要する構成になっているなと。思うのです。

ピンクのバラと青いバラ

アーニャの象徴はずっとピンクのバラだった。それが、大使館に戻ったアーニャは青いバラのガウンを纏う。それから、これまでスカーフを巻いていた首には何も身に着けておらず、開いたデコルテ。 何となく、もうこれ以降アーニャはピンクのバラを携えることはないのではないか、と思えた。だから、ラストシーンに再度現れるお決まりスタイルのアーニャは、もう彼の記憶の中にしかいないアーニャだな、と感じる。アーニャも大人になってしまい、少女のときのアーニャには2度と会えない。

ジョーは、いつだって本当の自分を進んで人に明らかにしたことはなかった。ところが、アーニャは嘘でかためたはずのジョ ーから、その本質を見抜いて口にした。彼はその言葉から、彼自身ですら気づいていなかった自分を発見した。ジョーは言葉 の虚を発しないことを得た。
アーニャは、いつだって嘘をつく必要なんてなく、周りが自分に合わせる環境から一転、環境に自分を合わせることを学んだ 。場合によっては目的のために自分の気持ちを押しこめて、自分にすら嘘をつくということを。
そんな嘘と嘘のはざまで、気持ちを伝えあえる秘密の暗号のようなもの、それが「うりふたつ」だ。 というか「うりふたつ」の意味をわざとあべこべに教えたのだから、その言葉が持つ意味が逆転する恐れはない。要は、嘘を ついているんじゃないか?と一切疑われずに通用する呪文みたいなものだ。 そして、それが”秘密の暗号”であるということも、3人しか知らない。
多分これからもアーニャは過去を懐かしみ愛おしく思ったときに「うりふたつ」という言葉を公の場の言葉の中にこっそり紛れ込ませるのだろうし、それは多分ジョーかアーヴィングの目に触れて、ちくりとする懐かしい笑いを誘うのだと思う。
そのような”魔法のことば”でなくても。気持ちが確かに通じ合っていれば、恋人たちは会話ができる。
嘘の嘘はまことに転ずるというか。その言葉が「嘘」であっても、背後の文脈を確かに共有して、共感して発せられた言葉なら、それは【嘘ではなくなる】のだと思う。

言葉の持つ2重の響き

ジョーが「今度は、本当の恋人と」というとき、そこには「自分はあくまで仮の姿だ」と相手をけん制するような響きが感 じられて。そんなこと改めて言わなくてもわかりきっていることなのに、と感じたりもした。しかしそこにはもう一つ含まれているようで。 「自分はあくまで仮の存在で、本当の恋人にはなりえない」という認識を自分で自分に言い聞かせているような、そんなニュアンスだ。 そういう風に【相手に言っているようで、実は自分自身に言い聞かせているんじゃないか】と聞こえるセリフは圧倒的にジョーに多い。アーニャは、ほんとうに素直だから。

けれど、後半、アーニャにもそう感じ取れるセリフがあった。

そうだ、何かつくりましょうか
お料理は得意なのよ、それにお裁縫もアイロンかけも
えぇ だけど腕を見せる機会がなくて

ここのアーニャは、確実にその夢が叶わないとわかっていて、それを確認するためにあえて言葉に出しているような感じがするのである。 そのあとに

ままならないのが人生、だろ?
そうね

という同意が、本当に悲しくなってしまう。 嘘を纏っているふたりが、もうすぐ物語が終わるということを悟っている、それが共通認識としてそこにある、その現実。

 

(もう大体 列挙しただろうか……)

何も言わなくていいよ、というラブレター

日によってニュアンスが違ったり、解釈が違ったり。なので私の印象ということで。

あなたが何も言わなくても、すべてわかっていますよ
だから心配しないで。

気持ちを言葉にするということは、その発した言葉以外のものを切り捨てる、選択という行為そのものなんだと思う。 あまりに多くのことがありすぎて、それを全て言葉に乗せるのは不可能で。けれど選ぶこともできなくて。
それからアーニャは「最後に何を言ったらいいのか」と言っている。おそらく2度と会うことは叶わないと認識している(だからこそ謁見の場において驚くのだけど)
言葉にしないからこそ、かえって永遠にも思える豊潤な含みのある間。 何も言わないことによって、多くを語っている空間、なのですね。  

 

 

*謁見のシーンについては、、息切れです。

 

 

結局、感想

ずーっと述べてきたこれは、ある意味感想ではなくて解釈のようなものだと思う。それで、、どう思ったかなのだけど。さぎりさんと咲妃さんは、どんなに恋に夢中になっても排他的にならないところがいい。棲むのは二人の世界だけじゃなくて、必ず他の人にも優しい目線を送る理性的な側面が好きだ。例えば傷心のジョーがはた迷惑な支局長の訪問に際して、彼に向けて見せる作り笑いだとか。もちろん迷惑なのだけど、「まだ期待してくださっていたとは」の言葉の裏には、期待を裏切った申し訳なさがちょっとでもあればよい。(少しはあるよね?)

 

かなしいハッピーエンド

タイトルでは「愛(かな)しい」という漢字をあててみた。悲しいとき静かに涙を流せること、情緒的な側面が好きだ。誰かのせいにしたり、代りに誰かに愛を求めに行くのではなくて、ただ静かにさめざめと泣いて、それから明日へと歩いて行けること、その無理のなさが。とことん落ち込むこと、烈しく愛すること、その感情の起伏を、その素直さが何より好きだ。無理はしていないけど、自分に嘘をついていない感じ。

 

 

別の感想を書かないといけない(?)から、私の見たローマはこれで一旦締めます。DVD見てまた違う印象を持つといいな。